【2013年秋:認知症の兆し⑨~書道グループ展にて⑷】
先生は私の目を見据えて、毅然と続けました。
「お父さんに伝えても、書道行かせなきゃいいですかとか、そういう話になってしまって。そういうことが言いたいわけではないの。そしてどうやら、あなたのお父さん、淑子さんをひどく怒鳴るみたいなのよね。お父さんが淑子さんを怒鳴ったり叩いたりすること、みんな心配しているの。書道を辞めてほしいんじゃないのよ。みんな淑子さんとお稽古するのは楽しみにしているの。よいお仲間ですからね。でもね、やっぱり…。みんな心配しているのよ。今は病院に行けば良いお薬もあるのでしょう?」
先生のいう事はもっともなことばかりだった。
母は私を判別できなかった。
それは事実だ。
(でも、どうして私が…?)
私の父は2001年に後縦靭帯骨化症で倒れた。半年間、四肢麻痺状態で、ベットを起こすことも禁止されていた。いつ死んでもおかしくない状態だった。自力で尿が出せるか、そのそも手足が動かせるかもわからず、たまたま救急で運ばれた先に後縦靭帯骨化症の専門医がいてくれたから一命が取り留めた状態だった。
私は幼稚園生の娘をバスで送り出すと2歳の息子を連れて父の病院へ通い、身体を拭いたり食事介助をしていた。
母は父のいる病院に来なかった。理由は
「バスがないから」
だった。
病院は私のアパートと実家の中間地点にあったし、基本的に病院は完全介護だ。
でも母は自分の歯医者なら街に行けたし、もっと遠くのデパートにも通っていた。
母の気持ちはわかってる。
母が見舞いに来なくてもいい。
「純子、やってちょうだい」
と母から病院代や下着購入も頼まれ、お金も預かり経理もしていた。
兄も姉も最初に数回来ただけで、見舞いには来なかった。私は自分が後悔したくないから通っているのだと、自分にも言い聞かせていた。
父が入院して2カ月したころ、私は兄に呼び出された。
「親戚で噂になってる。一番ばっちの娘に世話させて、誰も何にもしないって静岡のおじさんにから俺が起こられたんだ。もう病院に行くのをやめろ」
私は唖然とし、そして激高した。
「別に自分の好きでやってるんだから何でもいいでしょう!」
私は父の手術が成功して、リハビリが始まるまで通った。
父の手足が動くことを確認したころ、姉や兄が病院に見舞いに来るようになった。
それを確認した私は、父が入院した1年間のうち、残りの半年は病院に行かなくなった。