【2018年12月22日~2019年1月14日① 補足】
この間の私は通常通り仕事しながら母のソーシャルワークをしていた。
記録に書いた以外にも、有料老人ホームの資料集めや見学をしていた。資料はネットと電話で集めた。見学は5分みれば判断可能だ。
この間は北山家の二女というより、専門職として動いていた。
家族として感情を込みで動いていたら私は壊れただろう。
でも私はプロだ。
これまでも、ただ暴力を容認してきたわけではない。
枠組みを作り注意と予告し、そこを守れなかったら予告通りの行動をする。段階を踏み、最終的にこうなった。
私が疲弊しながらも実家に通い詰め、世間から両親の暴力を隠すという方法もあっただろう。
しかしそれは何も解決しない。
「底落ち」という言葉がある。困る主体を周囲の人から本人達に返す。
本来は底落ちさせるべきではない。でもそこから動くしか方法が見つからなかった。
留意していたのは、個人・社会・環境・を複合的に支援していく事。
無駄な議論はしないこと。
文書でのやり取りを基本とし、裁判も考慮して動くこと。
丁寧な話し合いや時間をかけた相談は、通常の家庭や虐待のない状態であればできただろう。しかし時間もなく、私の精神的な健康状態も確保できない状態での支援は、必要外の消耗は避けねばならなかった。
12月24日、母のBPSDでそよかぜ向かい、話し合った頃から、兄は『母を父のもとに返す』ことを壊れたレコードのように繰り返すようになっていた。
12月22日の話し合いの時に年単位での介護を提案した時も、兄は『報酬』について粘った。私は成年後見人の報酬に倣い、その2分の一を提案したが、「もっと欲しい」と繰り返しつぶやいていた。また、父から預かった20万も数日で使い切ってしまい、領収書もなく「別に領収書なんかなくていいよな」と電話で言ってきていた。
兄は収入に見合わない車に乗り、若い子のようにカスタムしていた。
洋服はこの田舎に似合わない、俳優のような格好だ。とても50半ばには見えない外見で、私より歳下に見えた。
「相変わらずお金使いが荒いんだな」
私は特に兄に対して父から預かった現金20万について言及することはしなかったが、「このまま兄は介護サービスを拒否するのではないか」と危惧していた。
兄の中で感情は整理されてはいないだろうが、親のお金が欲しい家族ほど介護サービスを否定する。かといって自分で介護をするわけではない。
別に珍しいことではない。認知症の親を家の一室に押し込めて、「出てくんな!」「うるせーぞ!」と怒鳴るだけの家族もいる。でも私にそれは出来なかった。
お金もでも出さない。契約も判断もしない。もちろん介護もしない。今後、反対だけするのではないかという不安。
ほどなくしてそれは現実になった。
兄の言うように、母を父のところに戻すことも可能だったかもしれない。
だが、必ず警察沙汰は繰り返されたと私は予想する。父は刃物を持ち出すのが好きだ。私の子供の頃からそうだった。
母の認知症が進み、自分の呼び出し通りに子供たちが来ないと立腹し興奮した父が、得意の刃物を振り回し、母と自分を刺す光景は容易に想像できた。
「身体も精神も判断能力も低下した父が、愛してるとか言いながら、感情的になって、母と心中騒ぎを起こす、または実行する」
私はまだ現実になってないことを心配した。
しかし現実になってからでは遅いのだ。
2018年12月28日からは、私は父・兄・姉と電話で直接会話をしない事に決めた。
私自身が精神的に限界が来ていたことと、父や兄に私に対して壊れたレコードのように主張を繰り返させないためだ。
私への電話は携帯電話でも夫が出た。
彼らは夫に対してブロークンレコードができなかった。
「純子はふせっています。私が代理人です。私が話を伺い、内容を伝え、返事が必要な事は純子からショートメールします」
夫はそれだけを伝えた。
しかし、姉とはショートメールで連絡が取れたが、兄は無理だった。
兄はショートメールが読めなかった。
ショートメールを送ることも出来なかった。
地域包括からの連絡も兄に行く体制になっていたが、其のたびに兄は混乱し、内容は正確ではなく、大騒ぎをして各所に電話をしていた。
兄は社会的な能力や知的能力が低い様子だった。
「このままでは後手に回る」
と考えた私は、2018年12月28日に、兄姉にメールで2019年の介護担当を申し出た。
姉は快諾し、兄は渋った。介護はしたくないが施設契約もしたくないと言ってたいらしい。
しかし、私が夫に頼み
「純子が「施設入所しないなら私は今後一切北山の家の介護に関わらない。連絡も一切拒否する」と話しています。どうしますか?」
と電話で話すと、兄は渋々承諾した。
2018年12月31日には通帳の受け渡しも行った。夫が同行した。兄は中々通帳を手放さなかった。