【2018年12月26日~30日 純子の記録①】

 

 

 

平成30年

12月26日(水)

(百合子からの報告より)

本日、かかりつけ病院の受診を受診してきました。病院には9時半に着いたのですがかなり混雑していて診察出来たのは3時半でした。途中、抜けて昼食をとりに行ったりしましたがお母さんは終始ご機嫌でニコニコ楽しそうでした。診察も嫌がることなく質問に答えていました。待ち時間が長かったので同じことを繰り返し言っていたのが「家には帰りたくない」「お父さんにはもう二度と会いたくない」「お金もないし、行くところも無いしどうしよう」ということでした。そよかぜのことも何度も説明したけど覚えていない様子でしたがそよかぜに到着したら「みんな居たの?」とご機嫌でした。処方は前回と変えて二種類になりましたがスタッフの方にお願いしてきました。以上、今日の報告でした。

 

平成30年

12月28日(金)

午前8時50分、純子が匿名で市高齢福祉課にGH空き状況の確認を行い、グループホーム華畑ハウスが1月2ユニット目オープンの情報を得る。18:00、グループホーム華畑ハウス見学。

(純子から太一・百合子への報告)

『太一さま、百合子さま本日、『そよかぜ』と『グループホーム華畑ハウス』に行ってきました。

①淑子はかなり落ち着いていて楽しそうでした。みんなとレクレーションをしていました。興奮したのは12月24日の日中のみ、それ以外は落ち着いているそうです。『ずっとここにいる』と話していました。薬の力もあるのかなと思います。一日病院付き添いをしてくれたおかげだと思います。

②『そよかぜ』の管理者野原さんと話しました。『次の施設が決まるまで、居て大丈夫です』と言っていました。2月3月くらいまで考えてくれています。

③『華畑ハウス』、駅前です。とてもいいところでした。新ユニット増設のため、入りやすい状況です。施設は綺麗で職員さんもアットホームで、お金も全て口座振替です。また、受診付き添いもしてくれます。状況を話し仮申し込みをしました。かなり前向きに検討していただけそうです。返事は1月中にもらえます。』

 

平成30年

12月30日(日)

12月25日から、淑子より「家に帰りたくない、二度と父の顔を見たくない」の発言有。12月28日からは「家は静岡、でも家もなくなった、誰もいない。お父さんは死んだ」との発言になった。BPSDは落ち着き、暴言や暴力行動もなくなった。しかし、兄が父の様子を見ていて、父は非常に泣いたり興奮したりしている様子。純子の家や携帯電話にも頻繁に入電あり、冷静じゃない様子がうかがえたため、淑子の精神面の安定と、淑子が自ら110番をした意思を尊重すると、安易に父と面会は避けるべきと判断した。

朝8時に純子から父に電話で、大晦日迎えに行かない旨を伝えた。最初は普通の受け答えだったのが、途中から泣き叫び、「約束していたのに!」と大騒ぎした。淑子の精神安定のため、と言っても全く話を聞かず、「顔が見たい」と言うので、写真を送ると提案したが、さらに逆上し、「直接会いたい、俺にも考えがある!!」と連呼し電話を切った。

 父が自傷する可能性もあると考えたため、純子から9:00~9:10警察署生活安全課ミムラ氏に相談したところ、「虐待事案で継続ケースになっており、市高齢福祉課も対応中。父に淑子を絶対に会わせてはダメ、千葉の純子の自宅に来ても、警察通報し警察官立会いのもと話をするように。『そよかぜ』は施設なんだから当然会わせないようにしていると思うが、次にやるのは施設まわりのうろつくことだろう。あとは警察等に電話してきて「今から腹を掻っ切る」などというのが定番。とにかく絶対に会わせないように」とのことであった。

 

 

【2018年12月22日~25日 それからの日々:郵送文書】

 

 

 

                                                                  平成30年12月24日

                                                                  記録者:○○ 純子

 

父、母の生活状況と母の今後のサポート体制について

 

場 所:両親の家

日 時:平成30年12月22日 19:00~21:00

参加者:父、太一(長男)、百合子(長女:配偶者同席)、

純子(二女:配偶者同席)

 

 

1.太一より、現在までの経緯の説明(純子補足説明付記:詳細は末に記す)

  

2.話し合いで決まったこと

・父の介護疲れからの再暴力、母の認知症の進行も懸念されることから、母親は入所施設で暮らす

・父は暴力暴言を行わない状態であれば母親入所施設で面会し交流していく事を推奨する

 

入所費用 

母親の年金:月57000円程度+預貯金約1000万で賄う。

予算月15万以内。

施設との連絡・経費の支出担当

2019年太一,2020年百合子,2021年純子と担当を年単位で回す。

年担当者の責

①施設との連絡調整(月1回の施設訪問)

②身上監護(施設との契約行為・医療同意)

③預貯金の管理

④必要に応じ、父・兄弟への連絡調整

経理の監査と引継ぎ方法、報

正月に兄弟で集まり、経理監査を行う。年担当以外で支出のあったものは、その際に清算を行う。(大きな金額等は随時相談)

間違いや不備などないことを確認した上で、母の預貯金からその年の担当者に報酬を支払う。(月1万円×12カ月=12万円)

施設選定の条

①○○市内②口座引き落とし可能③日用生活品を購入してくれる施設④洗濯をしてくれる施設希望。

施設を探す方

地域包括支援センターに相談。そよかぜに再度相談

母の預貯金、現金20万円 

平成30年12月22日、話合い前に現金20万円、話合い最中に母の預金通帳が父から太一に渡される。現在の保管者は太一

母の預貯金にまつわる事

しかるべき時期に、母・太一・純子で郵便局に行き、①届出印の変更②定額預金を普通口座に移動等の手続きを行う。

 

 

現在までの経緯

平成30年春ころより、母の行動がおかしいのではないかと太一に近所の人から連絡が入る様になった。同様に純子の方にも母親友人から『認知症ではないか』と連絡が入ってた。平成30年5月には、実家にて両親と太一・純子で話し合い、母は認知症外来を受診することになった。診察の結果、『軽度のアルツハイマー認知症』との診断。アリセプトを服用開始した。

 平成30年10月頃より、母が父より暴力を受けているのではないかと太一に近所の人から連絡が入るようになった。(10月21日純子が実家を訪問した際には、近所の人から呼び止められ、暴力があるからどうにかしてやってほしいと伝えられた。11月4日には純子のところに書道の先生から連絡あり「スーパーで父親が母親を怒鳴り続けている。3,4回目撃している。どうにか対応できないのか」と連絡あり)太一・純子が暴力したか父親に問うと、「殴っている」との答え。注意を促し、「もうしない」との事だった。(後日、純子から父親に電話連絡し、もし最後くり返された場合は警察通報もありうると伝えた。父は了承し「もうしない」と話した)

 

平成30年12月4日(火)、近所の方から太一に「父が母に鎌を投げたりしている」と連絡あり。太一が実家に向かい、父に内容を確認し反省を促すがケロッとしていた。18:00頃純子に太一から電話連絡あり。内容を聞き純子から地域包括支援センターに『高齢者虐待』と連絡。地域包括支援センター保健師社会福祉士が緊急で両親の自宅訪問。両親、太一、純子、地域包括支援センター職員2名で今後について検討を行った。話し合いの結果、父の介護疲れや負担を減らすため、通所中心に介護保険サービスを利用することで合意。その場で介護保険の申請を行う。(その時、母の左腕は肩から手首まで真っ黒な痣になっていた。地域包括職員、確認済)

 

平成30年12月12日(水)、地域包括支援センターから勧められた『小規模多機能型居宅介護施設そよかぜ』を両親と純子で訪問。ケアマネージャー、地域包括支援センターが、今までの生活や家族構成・母の成育歴をインテークした。12月19日から、『月火:通所、水:安否確認の自宅訪問、木金:通所、土:安否確認の訪問』のケアプランを立てる。帰りには両親と純子で通所に必要な物品を購入した。

 

平成30年12月20日(木)、母親から純子に「お父さんに殴られた!頬をひどく殴られた!ひどい!」と入電あり。電話最中に警察官複数名が到着。両親は警察署に連行された。父は太一が引き取りにいき、母親は純子が引き取りに向かった。22:00警察官から純子への説明では「これは高齢者虐待です。同居はさせないように。入所できる施設があるならそちらに入所。1カ月以内に警察が施設訪問し安否確認します」とのこと。同時進行で、19:30、純子より『そよかぜ』に泊まりの打診。21日からなら対応可との返事をいただき、20日夜は純子の自宅泊。母は警察署にいたこともすぐ忘れてしまい目の前の純子も忘れる瞬間があるような認知状態だった。しかし、一つ一つ説明すれば洗顔や歯磨きなどの生活活動動作も行えたため、丁寧な支持と見守りが必要な状態であると判断した。

 

平成30年12月21日(金)8:00『そよかぜ』に母を純子が送迎。管理者と今後の相談を行い、年内一杯は母を宿泊させていただけるよう依頼。管理者了承。当座純子私品の私服やパジャマを持参し、23日に不足している日用品を購入し持参する事や今後について相談することで合意した。

 

12/22以降の経過・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

平成30年12月23日(日)10:00純子『そよかぜ』着、購入した物品を渡し今後について検討。系列グループホームに再度入所を依頼。内部で検討をしていただく。日用生活品は『そよかぜ』購入可能との返事。サンダルの購入依頼した。請求書に付記することになった。父から純子に「母に会いたい」と興奮した様子で入電。そよかぜ野原氏と相談し、31日純子同席のもと父がそよかぜで母と面会し、混乱が無いようだったら、父のみの面会も検討していただくことになった。

 

平成30年12月24日純子、市内のグループホームのリスト順に電話をかけ、入所の可能性かあるところに見学に向かった。純子外出準備中、父から入電、号泣しながら「淑子に俺のことどう思っているか聞いてくれ」とのこと。「心配していた」と伝えた。

①「グループホーム太陽」空き1.生活保護受給者が入所者の半分を占める。申し込み後、そよかぜに事前調査の上判定会議。申し込みリスト無し。

②「グループホーム桃の花」現在満床だが、3月に新ユニット増床予定。申し込みは「診療情報提供書」「介護保険証」「健康保健証」を持参する⇒そよかぜに事前調査の上判定会議を経て入所。(暴力はNG)家族参加義務多い。

見学途中にそよかぜ職員から泣いた声で入電有「帰りたいと暴れて手が付けられない、暴力も振るわれ、物も壊した」とのこと。見学終わり次第、そよかぜに向かった。16:15純子そよかぜ着。太一に連絡を取り、太一も17:00頃到着。母は帰りたいと興奮状態。子どもの構成も忘れたり思い出したり.認知症状は悪化、大声で支離滅裂。施設職員に物を取られた、衣服を全部取られたと興奮。もの知られ妄想も出現。そよかぜ管理者野原氏は受診をすればあずかれるかと翌日の家族受診を勧めたが、純子・太一とも予定が付かず、夜間診療も探すが、かかりつけ病院はじめ数件に「主治医がいる場合の夜間受診のみはNG」「翌日外来受診」と断られたため、百合子に電話し外来受診を依頼。26日対応可能とのことであったため、そよかぜ野原氏に『26日かかりつけ病院受診でもよいか』と確認すると「それでもよい」との返事だった。

19:00、太一・純子、帰宅。

…………………

(送付した文書は以上)

【2018年12月22日 それからの日々】

 

12月22日、朝9時から午後5時半まで自分の相談事務所で仕事を行い、そのまま、東京から千葉に帰ってきた夫に事務所に迎えに来てもらい実家へ向かった。兄、姉、父と、今後について話し合うためだ。

食事をとる暇はなかった。

私は抗不安薬をいつもの2倍飲んだ。

 

夜7時、実家につくと、姉の息子家族と姉の夫がいた。姉の夫に会うのは初めてだった。

姉は台所でお茶を入れていた。兄は客間に座っていた。

 

「お姉さんも座って時間ないから」

「でもお父さんがお茶入れろって…」

「関係ないから!そういうことしてる暇ないから!」

 

父は居間の自分の定位置の立派な座椅子に、今までのように座っていた。

いつものようにドンと威張った様子で座っていたが、私が姉に指示する声を聞くと委縮したように肩をすくめた。

 

私は全身黒ずくめの男性のような格好で、ここにいる家族メンバーが見たことのない所作で客間に座った。

私はいままで家族が上手く行く様に願ってきた。

私なりに気を使い、兄や父にわかる言葉を選び、笑顔を浮かべ、家族の中で一番小さな可愛い純子として振舞ってきた。

もう兄や父に遠慮しながら、家族で協力して母を支える段階は終わった。

私は他者に気を使うことは出来なくなっていたし、硬めの雰囲気を作った方がこの話し合いは上手くいくと考えていた。

20代はマスコミの中で、30代は福祉行政のなかで闘ってきた私を、新聞報道やテレビで知ってはいただろう。

でも目の前の私はいつも彼らに微笑んできた。

戦士のような私を、彼らは知らなかった。

 

夫には何も話さなくていいと言ってあった。

夫は高度な交渉術に長けた人間だ。国内外で様々な仕事をしてきた。そして闘う私をずっと見てきた戦友だ。彼は側にいるだけで存在感がある。私たちはこのような場面で何度もタッグを組んできた。作戦を指示すれば私たちは完璧なフォーメーションが組める。夫は法知識に明るく、私は福祉や心理の専門家。

今日も夫は全てを心得ながら黙って私の脇に控えるように座っていた。

 

私は無駄な挨拶はせず、黒いバインダーを手に、今日決めなくてはいけないこと、警察から言われたことを印刷した文書を全員に配った。

「私は連日、母のこと、父のことで施設や警察に行って身体も時間も限界です。この話し合いも時間を決めてやりましょう。1時間。1時間で話し合いましょう」

 

父は客間の隣の居間から

「俺の話を聞いてくれ!馬鹿なオヤジなんです!淑子はどこにもやらねえ!もう殴ったりしない!このとおりだ!このとおりだ!」

と泣きながら土下座をし始めた。

「淑子!淑子!なんでなんだ!俺は別れねえぞ!離婚はしねえ!」

 

かなりの大声だったが私は

「警察からダメだって言われてるから。時間がないの。もしお父さんが冷静になれる日が来たら私と一緒に会いに行きましょう。でもそんな風に泣きわめいてるうちは無理」

と父に告げた。

姉の夫が父に駆け寄ったが、彼は部外者なので私は放っておいた。

 

「時間がないから始めましょう」

私は兄と姉に向かい、話し合いを進めた。

姉は「今日そよかぜに寄った、GHや特養の施設一覧を渡された」と、兄は「地域包括支援センターから施設一覧がFAXで送られてきた」と困惑していた。

地域包括からの一覧は高齢者専用住宅だけだった。

(役に立たないな)

母は認知症で、かなり不安が強い。ADLは自立していても、常に見守りが必要で、母の不安に丁寧に答えてくれる施設じゃないと難しい。

(高齢者専用住宅は一見家賃は安く見えるが必要な介護サービスを付けたら20万はかかるだろう。母は身体的には健康だから永く入居するだろう。予算は15万以内に抑えないといけない)

私は専門職成年後見人として財産管理を行い家庭裁判所に報告する業務も行っているし、ファイナンシャルプランナーとも連携をしながら障害がある方の親なき後の支援も行っている。

施設入居した場合のキャッシュフローは頭の中に叩き込んであった。

 

私達が相手にしないと分かると父は泣き止み、こちらの話に聞き耳をたて、母の郵便貯金の通帳とキャッシュカードを持ってきた。通帳には100万の普通預金と1000万の定期預金があった。

 

「印鑑はどれだか分かんねえ。好きに使え」

と座卓の真ん中に置いた。

 

(思ったより年金が少ないが10年は母の預貯金で賄えるだろう)

私は簡潔に今後の予測や課題を兄姉に伝えた。

 

話し合いは順調に進んだ。

私は今日話し合ったことを文書にして兄・姉に郵送することを約束した。

そして12月24日の記録も合わせて、12月25日、兄と姉に郵送した。

【2018年12月21日 それからの日々】

 

 

12月21日、一緒に事務所を経営している共同経営者三浦にラインで『面接時間ギリギリになるが必ず出勤する』と伝え、朝6時に家を出た。

母に食事をさせ私のダウンジャケットを着こませて、『小規模多機能施設そよかぜ』に向かった。

もう母は家に帰るとは言わなかった。

すっきりしたような、童女のような眼で朝の車からの景色を楽しんでいた。

 

(母から話さない限り私から実家や父の話をするのは止めよう)

(母が何を望んでるのか、何が好きなのか、それを知ろう)

 

横にいるキラキラした眼の女性は、年齢は重ねていても幼子のように高貴に見えた。

 

(母はADLはしっかりしていても、短期記憶は持たない。昨日、孫息子の名前は忘れたが孫娘の名前は何度か出た。お祖母ちゃんとして振舞えるのはこの年末年始が最後になるかもしれない。そよかぜも年末年始に夜勤職員は用意できないだろう。私の仕事は休みは関係ないが、今年だけは何としても母と一緒に過ごそう。私が後悔しないために…)

 

「純子?どこに行くの?」

 

そよかぜだよ、お母さん。私が仕事や東京の家の用事で千葉の家に居なくなっちゃうからね。お泊りしていてほしいの」

 

「純子の家にはいつ行くの?」

 

「大晦日は一緒に過ごそうよ。元旦も。何が食べたい?」

 

母は警察署にいたこともすぐ忘れてしまい目の前の私も忘れる瞬間があるような認知状態だった。

この時私は、認知症の症状は進行していたが、一つ一つ説明すれば洗顔や歯磨きなどの生活動作も行えたため、丁寧な支持と見守りが必要な状態であると判断した。

 

(一日なら私の力でどうにかなるだろう…毎日なら仕事は辞めなければならない…母には貯金があるのだから、それを使って介護を行うのか賢明な判断だろう…私が仕事をやめて私の報酬もなく私のキャリアもなくなり、母一人をみるために今のクライアントと仕事を全部投げ捨てるなんて…後から自分が後悔する判断はしない…私は私の暮らしを続ける)

 

 

「自分で打った柔らかいウドン。しばらくやってないからね。静岡の母さんが作ってくれたんだよ。あれが食べたいなあ…」

 

「よしわかった!うどんね!みんなで一緒に作ろう!ねっ」

 

母は「出来るの~?」と言いながらコロコロ笑った。

 

高速のインターからすぐのところにあるそよかぜには思ったより早く着いた。

 

「淑子さん!おはようございます!」

 

笑顔の野原さんが待っていた。

母は着くなり3名の職員に接待されながら、ソファでカフェオレを飲んでいた。

 

私は野原さんに事情や警察からの注意を話し

「しばらく、施設が見つかるまで、母をここに置いてもらえませんか」

と頼んだ。野原さんは

「分かりました。うちの系列のグループホームの利用してもらいながらになるかもしれませんが、預からせていただきます」

と柔らかい笑顔で私に答えてくれた。

 

私は持ってきた荷物を説明し、数日中には足りない下着類も持参すること、年末に父がすることになっていた契約は私が責任をもって行うこと、年末年始は私の家で母を看ることを約束した。

滞在30分で私はそよかぜを後にし、自分の相談事務所に車を走らせた。

 

その日、9時から予約が入っていたのは先輩家族の相談だった。

私は家族相談を専門としているが、相談中ずっと心臓に痛みを感じるのは初めてだった。

でも私はその仕事を成した。

私はプロなのだと思った。

 

相談の合間に地域包括支援センターに連絡をした。

母はもう実家に戻さないよう警察から言われていること、父が心配なので巡回や相談にのって欲しいということ、母の施設を早急に探したいので地域の施設の空きリストがあれば教えてほしいと伝えた。

 

そして相談業務の隙間を縫って娘を経由して姉の息子に連絡を取った。

私の娘から「私の携帯に電話をくれ」とラインメッセージを送ってもらった。

昼に甥から折り返された電話で、簡略に事情を話し

「お祖母ちゃんになるべく早く会いに来てほしい。君は一番かわいがっていた孫だから。あとお母さんにも私の携帯番号を伝え電話をくれるように言ってほしい」

と伝えた。一時、この甥を母は育てていたのだ。

「分かった。必ずすぐ行く。母にも伝えます」

甥は迷わず返事をくれた。

 

(お母さんが記憶を保っているうちに、この甥に会えますように!)

私は涙が止まらなくなった。

 

(泣いてる場合じゃない。やることはたくさんある)

 

姉からも電話が入り、12月22日の夜7時に実家で話し合いをしようと伝えた。

兄には姉から連絡を入れてくれるように頼んだ。

 

夜には「そよかぜ」に向かった。私の体調を心配した共同経営者の三浦が車を運転し、同行した。

 

この日から私が父・兄・姉に会うときは、夫か三浦が付き添った。私が頼んだのだ。

一見普通に見えても、私には鬱の状態が出始めていた。適応障害というべきか。

食事もうまく摂れず、軽い解離をしてしまうような瞬間もあった。

 

私達はそのようなクライエントをみている専門家だったから、私は一人でこれ以上の心理的負担を担う状況を減らそうと考えた。心理の専門職としてずっと働いてきた三浦は

「その方がいい。大丈夫。側にいるから」

といつものようにただ側にいてくれた。

 

私は頓服で処方された抗不安薬を飲まないと母以外の定位家族には会えなくなっていた

【2018年12月20日⑤ 父に前科が付いた日】

 

夜の国道は静かだった。

「純子?すごかったんだよ。静岡の兄貴も、従妹もみーんな来てくれてね。家の前がぱあっと明るくなってね。道いっぱいにみーんなが迎えに来てくれたんだよ。嬉しかったなあ…みんなが道いっぱいに来てくれたんだよ…」

 

「お母さん110番したんでしょう?頑張ったね」

 

「??今からどこに行くの?純子の家に行くの?」

 

「そうだよお母さん。もう何も心配しなくていいんだよ。お母さんの大好きな湯たんぽも2個用意するし、大好きなウドンも食べようね。何も食べてないんでしょう?」

 

「ああ。そうだね。何にも食べてなかったね。今日は初めてのところへ行ったろ?帰りたくてね、喜んで元気に帰ったら、いきなりお父さんに殴られたんだよ…。びっくりしたよ。裏庭からお父さんが飛んできていきなり殴られて…」

 

「お腹空いてるならどこかコンビニでも寄ろうか?」

 

「その前に俺が心配だから。母さんが何か食べてくれよ。頼むから」

黙って付き添っていた息子が私に声をかけた。

私は途中のコンビニで温かいココアを2本買ったが、母は頑として口を付けなかった。

 

しばらくすると母が何も話さなくなったので、車内は静かになった。

 

私は運転しながら

(私の母親だからじゃない。一人の女性が、長い間暴力を当たり前に受けてきた女性が、認知症という病の中でも必死に助けを求めたんだ。これを放っておくなら私はソーシャルワーカーじゃない!私はこの人が母親でも他人でも、絶対に守らなきゃならない。そうじゃなければ私は何のためにこの仕事をしてるんだ!)

涙は出なかった。

夜道はキラキラとしていた。

 

(母は強かった。きちんと自分の力で逃げ出した。私の自慢のお母さんだ)

 

私は実家から持ち出した半纏を着た母を刺激しないように覗き見ながら、運転を続けた。

 

12時40分、やっと自宅に戻ると、息子が部屋中の暖房を入れつつ母を大きなソファに誘導し座らせ、慣れない手つきで湯たんぽの用意を始めた。

 

私は手早く小さなお握りを3つと、温かいウドン、ホットミルクを用意し、母の前のcafeテーブルに置いた。

 

「さあ、少しだけ食べて一緒に寝よう?」

私がそう誘うと、母は

 

「純子、私帰るよ。今帰らないとどんなひどいことになるか…。お母さんなら大丈夫だから…」

迎えに行ってから帰り道の間も、不思議と表情を崩さなかった母が不安そうな顔をしていた。

私は母に向き直り

「お母さん。もう戻らないで。戻って殴られる必要はないの」

と強く言ったが、母は

「でもね、帰らないと、ひどいことになるから…」

と繰り返した。

 

(ちゃんと話そう。私の正直な気持ちをちゃんと)

 

「お母さん、ずっと言っていたよね?私が小さい頃からずっと。自転車をこいでもこいでも富士山が見えなかったって。静岡に帰りたくて帰りたくて半日自転車をこいでも帰れなかったって。もういいんだよ。もう帰っていいの。お母さんが苦しい場所に戻ることはないの。私はお母さんが幸せで居たい場所に居てほしいの。親切にされて暮らしてほしいの」

 

私が真剣にそういうと、母ははらはらと涙を流した。

 

涙を流しながら、私達は一緒にうどんやお握りを食べ、一緒のベットで寝た。

客間に母と私の布団をひく余力はなくて、夫と私の寝室、大きなベッド2台が連なっているところに母と寝た。

 

足元には息子の入れてくれた湯たんぽが二つあった。

ベッドの中で

「気持ちがいい布団だね」

と母は幼子のようにクスクス笑った。

【2018年12月20日④ 父に前科が付いた日】  

 

息子は母のお気に入りの、一番小さな孫だった。

「お祖母ちゃん、寒くない?」

ふらふらしてる私に代わって、息子が優しく声をかけた。

「純子?どちらさま?どこのお兄さん?」

 

(もう分からなくなったんだ…秋に会った時には覚えていたのに…)

 

「こんばんは。純子さんと一緒に迎えに来ましたよ。寒かったでしょう。何か飲みますか?」

 

息子は私が何も言わなくても事情を察し、優しく母を労った。

 

(もう10時半だ…家につくのは12時半…早く帰らなくちゃ…)

(ああ駄目だ!今からもう母は家に帰れない!健康保険証と薬、それだけは持ち出さなくちゃ!)

 

「お母さん、少しだけ寄り道してから私の家に行くね!寒くて悪いけど毛布かけてね!」

 

私は息子に小声で打ち合わせをした。

「もうおじいちゃんがいる家にはお祖母ちゃんは帰れないし、もう二度と会わせるなと警察官に言われたでしょ。だけどどうしても今飲んでる認知症の薬と保険証はいるから、いまからおじいちゃんの家に行く。まず私が家にサッと入って取ってくるから、もしおじいちゃんが大きい声出したり私を殴ったりしたら、私が大声出すから、そしたら助けに来て」

「じいちゃんは俺の事を可愛がってるだろ?俺が取って来ようか?」

 

(お父さんも孫の息子のことはひどく可愛がってる。確かに孫息子に興奮するとは思えない。だけど…お父さんのみっともないところを息子には見せたくない。いいおじいちゃんのまま記憶してほしい…)

 

「ううん、私が行く。お祖母ちゃんの側にいてくれる?すぐに済ませるから」

 

「わかった」

 

(息子が来てくれてよかった…)

 

警察署から30分、実家にはいつもように灯りがともっていた。

私が玄関のチャイムを押すと、能面のようなのっぺりとした表情の父が出てきた。

 

「保険証と薬!それだけをすぐに!」

私は叫んだ。

同じ言葉を3回繰り返し、玄関で私が母に買った靴を持った。

どかどかと実家の居間にいき、母のお気に入りの半纏を手に取った。

 

「あいつは!俺のサンダルを履いて施設に行ったんだ!俺のサンダルを!」

 

「だからって殴ることないでしょう!殴っていい理由は何一つない!もうお母さんはここに戻らない!話はあとで家族全員が集まってから!」

 

「俺が悪いんじゃない!昨日の夜だって、あいつはどこかに行ったんだ!」

 

「話は聞かない!薬!保険証!」

 

私は父が指しだした薬と健康保険証をひったくるように奪い、靴と半纏を抱えて車に駆け戻った。

 

 

【2018年12月20日③ 父に前科が付いた日】

 

 

全ての電話が終わったのは20時半。私は半分呆けながらも

地域包括支援センターに報告は…いいか、しなくて。何もしてはくれないんだし)

(一人で2時間運転する自信はない…)

そよかぜに朝7時に連れていく…朝は5時半に出発して、そよかぜに連れて行って、すぐに引き返して…私のパジャマと洋服をとりあえず見繕って…)

 

と段取りを考え続けていた。

 

(このままの私の精神状態で、興奮したり不安になっているはずの母の相手をしながらの往復は危険だ)

 

平日、夫は東京の家に居る。千葉の自宅には息子と2人で住んでいた。

私は息子に事情を話し一緒についてきてほしいと頼んだ。

「おばあちゃん、自分で警察に電話したらしいの。私も心理的に不安定になっていて、途中でどこかから電話が来るかもしれないし、出来たら警察に一緒に行ってほしい」

 

「そうだね。一緒に行くよ。何か食べたの?母さん」

 

日頃はさっぱりした息子がさりげなく向けてくる優しさが救いだった。

 

車内では息子が

「水分取って。何も食べてないんでしょう?」

と珍しくかいがいしく私の世話をした。

「こんなことになるなら、俺が早く運転免許を取っておけばよかったな…」

暗い夜道のドライブは息子が支えてくれていた。

 

22時、警察署に到着した。

寒い夜だった。

母のために車に用意した毛布だけでは足りない気がした。

 

(どんな服装で保護されているんだろう?)

 

警察署に入り、名を名乗るとほどなくして担当警察官が2名やってきた。

「娘さんですね?先ほど電話で話した大内です。お父さんはお兄さんが迎えに来ました。お父さんには前科を付けました。もう二度とお父さんには会わせないでください。危険です。高齢者虐待って知ってますか?」

「知ってます。私こういう仕事をしてます…」

私は警察官に名刺を渡した。

「ああ、専門の方でしたか。じゃあ話が早い。この先お母さんの居場所はありますか?」

「明日からこちらのそよかぜに泊まらせてもらうことになりました…」

「それは良かった!警察の方でも巡回します。いいですね?もうご実家に戻さないように!必ずこれ以上の事件になります。娘さんの責任も問われます。ではこちらの書類に署名捺印してください」

 

夜の警察署は寒くて暗かった。

 

差し出されたA5くらいの用紙は身柄引受書だったと思う。

 

よく覚えてない。記憶がゆらゆら揺れている。

 

私が署名捺印をするとサッと用紙が引き抜かれ、奥からよろよろした母が出てきた。

 

「純子!純子!」

 

私は大きな頼りがいのある人に会えたような、見知らぬ他人に引き合わされたような、不思議な、ホッとしたような、そんな気持ちがした。